「彼女は、」
ふと口を開いて、すると云いたいことはたくさんあったのに、全部するすると開いた唇の端から空気と一緒に抜けてしまったように何もなくなってしまった。彼女はやわらかかったですか。彼女は僕なんかよりやさしかったでしょう。彼女は気持ちよかったですか。彼女のこと、愛しているんですか?自分で口にするにはあまりにもつらすぎて、なんとか搾り出せた言葉は結局、あまりにも意味のないもので心中どうしようもないと思う。
「僕のこと、ドブって云ってましたよ」
彼はこちらを少しだけ振り向いて、それでも決して目は合わせずに「そっか、」と短く云った。「ドブ、ねえ…」ねえ、その瞳で何を考えているんですか?
「あなたがハーメルンにホイホイついてく鼠だとも」
「はは……、さしずめドブネズミってとこか」
「みすみす溺れさせられないとも」
「……ばかじゃねえの」
貴方って人は本当に贅沢で、こんなにも愛してくれる人が周囲にたくさんいて、いつだって幸せの欠片をその両手に握り締めているっていうのに、どうしてあなたはそれをいとも簡単に捨ててしまったんでしょうね。結局あなたの手元に残ったのはこの俺しかいない。それがうれしいのか、悲しいのか、自分でも分からない。
ただ、ひたすら、こわい。
「先輩、」
おれは、あなたのすべてがほしいです。
そんなこと、こわくてこわくて、言えっこない。いつだって俺は鼠を追い詰めたふりをして仕留められないでいる。きっと、いつまでも。いつまでも変わりっこない。
「先輩、」
だからせめて、今だけは。
(窮鼠/今ヶ瀬×恭一)
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